世界からのメッセージ
発祥の地の誇りにかけて世界大会を成功させましょう
紿田英哉
才能教育研究会常務理事
ISA理事会議長
大会副委員長も務められる紿田英哉さん 2011年秋のISA(国際スズキ協会)理事会で、スズキ・メソードの第16回世界大会を、日本では4回目、14年ぶりに松本で開くことが決定されたのは大変嬉しいニュースでした。
ISAは世界各地域のスズキ・メソードの組織の上部団体として位置付けられています。アメリカに本部とCEO(専務理事)をおき、それに世界の5大陸(アメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、アジア、それに日本)のスズキ・メソードの代表者と、スズキ・メソードに関係の深い学識経験者3名、合計8名でISA理事会を構成し、各大陸の代表が2年ごと持ち回りで理事会議長を受け持つことになっております。
2012~13年はTERI(才能教育研究会)からの代表理事の私が、議長の任にあたっています。
世界中に発展し、さらに伸び続けているスズキ・メソードの関係者にとって、久々に発祥の地での大会開催への期待は大変大きなもので、海外からも多くの参加が見込まれています。
世界に誇れる日本からの代表的な文化発信の一つ「スズキ・メソード」発祥の地の誇りにかけて、是非この世界大会を成功させましょう。実行委員会始め、会員の皆様方の積極的な参加とご協力を切にお願いする次第です。
鈴木先生の真髄を皆で分かち合う絶好の機会です
パメラ・ブラッシュ
ISA理事会 副議長
アメリカ・スズキ協会 常務理事
アメリカスズキ協会のパメラ・ブラッシュさん 私がスズキ・メソードの世界大会に初めて出席することができたのは、1985年8月にカナダ、アルバータ州のエドモントンで開かれた第7回大会でした。それはアメリカ スズキ協会の地域内での開催ではありましたが、カナダは遠く感じられました。間もなく始まる音楽の一大行事に興奮しながら、皆で他国へ旅するのは初めての経験でした。参加の家族の皆さんをアルバータ州までお連れするのは大役でしたが、誰もが忘れられない体験となったものです。悲しいことに私にとっては、これが鈴木鎮一先生にお目にかかれた最初で最後の機会でした。
それに続く特別な経験は、何年も後ですが、松本を初めて訪れたことです。鈴木先生の素晴らしいご指導やご執筆が実際に行なわれた地、松本の先生方や音楽院、その地域社会を知る機会を逃すべきではありません。多くのアメリカの子どもたちは、鈴木先生が実在された人物で、特別な、尊敬すべき先生であったことを知りません。アメリカの、そして世界のスズキの先生方の何世代かは日本で学んだ経験がなく、その文化を知る機会や松本での行事に参加したこともありません。日本や世界各地で鈴木先生の功績を伝えている先生方を知る機会もなかったのです。長くて費用のかかる旅ではありますが、世界大会に参加することで先生方や家族の皆さんは元気づけられることでしょう。松本の大会に参加することは、スズキとしての経験全体を見透すのに役立つに違いありません。
世界のあらゆる地域からの指導陣に加え、先生方やご家族の皆さんも、この第16回世界大会に参加することができます。全員が、大いに学び合えることでしょう。私はISA理事会の次期議長として、今大会の成功に向けて、できる限りの努力をしたいと思います。そして「美しい音、美しい心、音楽で結ばれた平和な世界」という鈴木先生の真髄を皆で分かち合い、活動する絶好の機会になりますことを望んでいます。
日本の皆さんの強さの証しです
ギルダ・バーストン
ISA専務理事
アメリカ ・チェロ科指導者
第9回世界大会でレッスンをされているギルダ・バーストン先生(1989年、松本) ISA理事会を代表して、2013年3月に松本で行なわれる第16回世界大会の成功をお祈り申し上げます。
この素晴らしい歴史的な行事は、参加する子どもたちにとって、音楽を通して様々な国の人たちと友情を育む機会となります。そして「戦争のない世界」、「すべての子どもたちの幸せのために」という鈴木先生の理想を推し進める大会になることでしょう。スズキ・メソードの先生方は意見を交換し合うことができ、世界各国から招かれる指導陣のレッスンを見学することで鼓舞され、大きな刺激を受けるに違いありません。また、この大会は、2011年に未曽有の災害に見舞われながらも、復興に向けて努力されている日本の皆さんの強さの証しとなることでしょう。
ISAの私たちは皆、今大会の企画に興奮を覚えております。そして、この素敵な行事に参加できることを願っています。
世界中のあらゆる分野のドアの鍵を握っています
マルティン・リュッティマン
ISA理事
スイス ・ スズキ協会会長
ヴァイオリン科指導者
第51回グランドコンサートでは、子どもたちと一緒に武道館で演奏されたマルティン・リュッティマン先生 「世界の夜明けは子供から」― 世界大会のための、なんと素晴らしいモットーでしょう。私たちは今回、改めて未来の社会を見つめ直そうとしています。私たちが子どもたちのために行なうことは、すべて未来の社会と関わっています。それは教育次第です。従って、早くから教育を始めれば、次の世代へ大きな影響を及ぼすことができるのです。しかしながら、これには大きな責任が伴います。
スズキ・メソードが発展を続けながらも、なお原点に忠実で、しかも教育法と基本理念において世界的な了解に達しているのは驚くべきことです。スズキの生徒であった人たちが、自らスズキの先生になる例が増えていることが、これを証明しています。
世界大会は、皆で集まってスズキの未来について詳細に検討する、絶好の機会であると思います。それは私たちの立場を確認するのに役立つばかりでなく、進むべき方向を見極め、近い将来の新たな目標を定める好機ともなります。
私たちには教育の共通認識があり、世界中の子どもたちと上手に接することができますから、音楽だけでなく地球上のあらゆる分野の、より良い教育へと通じるドアの鍵を握っていることになります。この鍵を活用しようではありませんか。
様々な国の大勢の子どもたちから熱気を受けとりましょう
ウィリアム・スター
ISA理事会 初代議長
アメリカ・スズキ協会 初代会長
ヴァイオリン科指導者
第6回世界大会でレッスンをされているウィリアム・スター先生(1983年、松本) 2013年に松本で開かれる、次回の世界大会を心から楽しみにしています。スズキ・メソードの故郷で開かれる大会としては、実に14年ぶりです! これまでの世界大会には、数々の幸福な思い出があります。そこでは、開催国の新たな友人たちと出会え、世界中の若いソリストの演奏を聴くことができ、また、若い先生方や親御さんたちの奮起する姿を見ることができました。これらの大会には数多くの先生・生徒・家族が参加されましたが、それでも、世界中でスズキ・メソードの恩恵を被った無数の人々からすれば、ごく一部に過ぎません。
スズキ・メソードの最も顕著な特質の一つは両親を巻き込むことで、それにより、子どものレッスンが家中の関心事となるのです。生徒や親御さんの意欲づくりに関心のある先生は、この世界大会への参加を勧めるべきでしょう。様々な国の大勢の子どもたちが生み出す熱気を直接、目にすることで、多大な刺激を受けるに違いありません。
松本で皆様とお会いするのを楽しみにしています。
多くの素晴らしい思い出、特に才能教育の故郷 松本の思い出とともに
ジャクリーン・コリーナ
アメリカ ・ヴァイオリン科指導者
季刊誌No.167のサンフランシスコでの「鈴木先生を語る」座談会にも出席されたジャクリーン・コリーナ先生 私が松本の〝研究生〟だった1970年代、鈴木先生は夢を抱いておられました。─才能教育は日本だけのものではなく、世界中に広まるべきだ。親たちは皆、子どもを美しい心に育てたいと願い、それは音楽を通して成し遂げられる。すなわち、「すべての子どもたちは育て方次第で、世界をより良くすることができる。」─ たぶん、これが、「戦争のない世界」という鈴木先生の願いを達成するのに役立つのだと思います。
かつて松本でお会いした大勢の留学生の皆さん、そして、お世話になった日本の先生方、友人、当時の生徒とその家族の方々に再会できるのを楽しみにしています。
松本の世界大会を皆が期待し、待ちこがれています
水島隆郎
オーストラリア ・チェロ科指導者
水島隆郎先生はシドニーを中心に活躍されています スズキ・メソードは海外の多くの国で本当によく知られている幼児教育の一つでしょう。小さな子どもを持つ親は、一度はこの名前を聞いていますし、海外ではヴァイオリンを教えている先生もまた、ほとんどと言っていいほどスズキの教則本から始めているようです。これは私のいるオーストラリアやニュージーランドだけでなく、もちろんアメリカでも、ほとんどの子どもはスズキの曲を知っています。
このスズキ・メソードの広がりは時が経ち、今2代目、3代目のスズキファミリーとなってきています。当地シドニーでも、第2世代の子どもたちが増えてきています。昔、生徒だった子どもが今は母親・父親となってグループレッスン、コンサートに子どもたちを連れてくるのはシドニーでは当たり前の光景です。鈴木先生のことを知った人々が世界中でスズキ・メソードを広め、実際にその方法で育てた結果、子どもたちの中に、はっきりとこのメソードの真理が根づき、いま第2、第3世代を生んでいるのでしょう。スズキ・メソードが理論としてでなく、事実として息づくことができたことを、これは証拠として世界に見せているのではないでしょうか。
他のメソードと違い、スズキは教則本が一つだけ。他に余分な副教材は使わない。この本だけで子どもたちの能力を高めて、素晴らしい結果を世界の至る所で見せているのです。教え込む教育から、育てる教育へ ― このスズキ・メソードの導き出した結果が世界に認められているのでしょう。子どもの可能性を知っているスズキ・メソード。片や、未熟な子どもを教え込み訓練していく常識の教育。ここに根本的な違いがあり、スズキで子どもが立派に育つのは、この基本的考え方の違いによるということなのでしょう。
今、世界の第2世代、第3世代の目が、自分たちの会ったことも見たこともない鈴木先生に向けられているのを私はよく体験します。若い先生方と話す時、父兄と話す時、私が鈴木先生のもとで過ごした日々を語ると、彼らの驚きと憧憬に満ちた表情の中から「あなたはドクター・スズキに習ったのか?」と言われることはよくあります。その多くの人たちが、来年行なわれるスズキ・メソード世界大会に参加したいと願っているのです。「あなたも行く?」と互いに話し合っている父兄、「もちろん行くよ!」という先生方。皆が期待し、待ちこがれているのだと思います。
予想だにしなかった昨年の大災害により、科学の常識が、ああももろくも崩れ去り、人々の中に常識として存在していたものへの懸念が生まれました。「絶対大丈夫」という常識は消えてしまいました。私たちは、これこそが真実だと思い、それによってこの世をはかり押し進めてきました。未来に向かう子どもたちと、そこにある希望に目を注ぐことから遠ざかっているのではないでしょうか。
子どもの可能性に目を注いだ鈴木先生、その才能教育の始まった日本で行なわれる今回の世界大会の中で、子どもたちの能力が常識を覆して育っていくその姿を、世界中の人が松本に集まり、賛美しようとしているのではないでしょうか? 子どもたちを通して人が与えられた能力の深さ、広さに気がつき、「育児国策」と鈴木先生が言われていたことの深みに漕ぎ出していくスズキ・メソードの世界的広がりを、松本で確認できる機会が与えられていることに感謝します。
音楽による人間教育の祝典
キャシー・シェパード
ドイツ ・ヴァイオリン科指導者
当時14歳だったキャシー・シェパード先生が、「14歳」の鈴木先生のレッスンを受けられたときの写真 松本は私の心の中で特別な思い入れのある場所です。日本アルプスに囲まれた、この美しい街を初めて訪れたのは14歳の時でした。古い松本駅、そして母と一緒に才能教育会館まで歩いた砂利道を思い出します。
鈴木先生は、音の深さ、音への集中に焦点を当てた日課を出されました。また、暗譜で演奏することを奨励されましたが、それは私がまだ慣れていないことでした。最初のレッスンで先生は、ご自分も14歳であると冗談を言われました。これは1976年1月のことで、77歳(7+7)でいらしたのです!
確かに松本市は1976年以降、様々に変化していますし、悲しいことに鈴木先生は、もうこの世におられません。でも、そこには先生のお心が満ちていて、先生の愛されたアルプスは永遠に聳え立っています。音楽による人間教育の祝典である第16回世界大会にとって、なんと相応しく、すばらしい立地であることでしょう。
2013年3月の大会に参加する皆さんは、私がそうであったように、この地の美しさと親切なおもてなしに感激し、また、鈴木先生の世界的な理想が力強く受け継がれていることに圧倒されるに違いありません。
思い出とともに
ヘレン・ブラナー
イギリス ・ヴァイオリン科指導者
ヘレン・ブラナー先生は、2009年4月にメルボルンで開催された第15回世界大会でも指導されました 私は1968年にアメリカのニューヨークで、初めてスズキ・メソードを知りました。4人の子どもの「スズキ・マザー」として、自分の人生が変わってしまったのです。わが子が、この教育法で育つのを目にして大きな衝撃を受けました。スズキ・メソードは、私がヴァイオリニスト・親・教師として切望していた真理のようなものでした。
10年後、私は松本の才能教育研究会で鈴木先生のご指導のもと、ヴァイオリンの勉強を改めて始めることができました。大変に幸運なことでした。松本で学ぶうちに、私は鈴木先生に心から感動しました。私たちがヴァイオリンの本当の音と向き合い、「平和とすべての子どもたちの幸せ」のために邁進することを教えてくださったのです。
鈴木先生のように19世紀生まれの偉人で、その理想が今日でもなお生きている人は、ほんのわずかです。昨年、私はシンガポール、ポーランド、フランス、アメリカなど各地で生徒の指導をすることができました。2012年1月には、ペルーのリマで開かれた南米スズキ・フェスティバルでも指導しました。エクアドル、ボリビア、チリ、ブラジルなどのスズキ・チルドレンが、ペルー、ベネズエラ、アルゼンチンの子どもたちに加わりました。世界中のどこでも、スズキ・メソードは生き生きと活動しています。これが、まさに鈴木先生による奇跡なのです。
2013年3月には、世界に広がった才能教育の最良の姿を目の当たりにできる、絶好の機会が訪れます。松本の世界大会には大勢の生徒や親御さん、先生方が集まることでしょう。私も、また〝故郷〟に帰ることができるのは、身に余る光栄です。
生涯を豊かにしてくれた才能教育に心から感謝しています
クリストフ・ボシュア
ISAヴァイオリン科委員長
フランス ・ヴァイオリン科指導者
クリストフ・ボシュア先生はISAのヴァイオリン科委員長としても活躍されています 前回の松本での世界大会から、14年目を迎えようとしています。私はその大会の際の、故郷に帰ったかのような気持ちをはっきりと思い出すことができます。松本の才能教育全体が鈴木先生のエネルギーを吸収し、そのエネルギーが私たちに語りかけ、歓迎してくださっているかのようでした。
大勢の先生方が松本で再会するのは家族の集まりのようで、温かさに包まれ、心を打たれるものでした。大会そのものは日本の組織の典型で細部まで練られていて、楽しい時を過ごすことができました。会期の終わる頃には、またいつか松本へ来ることができるのだろうかと思い、悲しくなったものです。
日本のお仲間の方々は大変な年を乗り越えて、第16回世界大会という素晴らしい機会を提供してくださいます。すべての先生、生徒、親御さんへの大切な呼びかけで、これで一致団結してスズキ・メソードの理念を存続させ、さらに強固にすることができるのです。予測できないような時代だからこそ、私たちにはそれが必要です。
私が世界中の子どもたちや仲間とともに、魅力のある、意欲的な日々を送ることができるのは、松本の鈴木先生のもとで学んだお蔭です。スズキの指導者として、生涯を充実したものにしてくださった、この国と才能教育研究会に感謝したいと思います。
どうぞ世界中から集まって、堅固で活気のあるスズキ・ファミリーの一員となってください。2013年3月に松本でお会いしましょう!
カザルスの言葉が思い出されます
ロイス・シェパード
オーストラリア・ ヴァイオリン科指導者
オーストラリアで活躍されているロイス・シェパード先生 オーストラリアのヴィクトリア州ではスズキ・メソードがとても盛んで、子どもたちや先生方は、常に松本の鈴木先生への感謝の心を忘れません。
子どもたちにとって、世界大会に参加して様々な国の人たちと音楽への愛を分かち合えるのは、何とありがたいことでしょう。鈴木先生は、こういうことを思い描いて、次のようなカザルスの言葉を引用されたのだと思います。
「音楽はダンスをするためのものではなく、小さな快楽を求めるためのものでもなく、人生にとって、もっとも高いものです。おそらく、世界は音楽によって救われるでしょう」
2013年の世界大会の成功を、ヴィクトリア州からお祈りいたします。
人を迎え入れる心
ポール・ランデフェルド
ISA理事
アメリカ・ヴァイオリン科指導者
以前、ISAのCEOを務められたこともあるポール・ランデフェルド先生 スズキのヴァイオリン科指導者としての40余年間に、私は幸運にも松本の音楽学校で鈴木鎮一先生に学ぶことができ、様々な大会や研究会、夏期学校にも出席することができました。ホテルのロビーなどで、鈴木先生が親御さんたちと気軽に会話をされているのをお見かけしたことが何度もあります。幼い子どもたちが隣の席に、よじ登ったり、先生の膝の上に乗ることさえ珍しくなく、どうして、そんなに子どもたちを惹きつける力をお持ちなのか、不思議でなりませんでした。
今、思うに、それは先生の迎え入れる心であり、先生にお会いするだけで感じられるものでした。眼差しも他人を迎え入れるような、特別“キラキラ”した輝きに満ちていて、無言のうちに、こう語っていました。「私の世界へ、ようこそ。一緒に素敵な冒険に出かけましょう。」その時には、この冒険が楽しいものに違いないと思わせるような微笑も浮かべておられました。
鈴木先生の米寿の際も、私は松本にいました。お祝いの席で先生に、ご長寿の秘訣と、どうして88歳で、そのようにお元気なのかを尋ねてみました。先生の数え方では、まだ16歳(8+8)であると教えてくださいましたが、その時、次のような忘れがたいことを言われました。
「私の心が、どこか別の所へ行きたいと思わないからです」
先生は瞬間、瞬間を完全に楽しんでおられ、他の人たち、特に子どもたちと、お互いに楽しい時を過ごしておられたのです。人間性を育てる教育の可能性と新しいアイデアを探究し、大きな冒険としての生涯を享受されていました。そして、とりわけ、世界大会を楽しみにされていました。
第16回スズキ・メソード世界大会は私たちにとって、様々な国の人たちと出会い、才能教育の可能性を探究する絶好の機会となります。世界中のスズキのお仲間の皆様、来たる3月は松本に集まり、この冒険に参加しようではありませんか。
声楽科の生徒たちとの旅
パイヴィ・クッカマキ
ISA声楽科委員長
フィンランド・声楽科指導者
1999年の世界大会のバンケットで、声楽科の皆さんがワルトラウト夫人に歌のプレゼントをされました。夫人の手を取られているのがクッカマキ先生です 世界中のスズキの声楽科の生徒や家族、先生方は、スズキ・メソードの故郷 松本へ行けるのを楽しみにしています。
私のスズキとの終生の歩みは、どのようにして始まったのでしょうか。私が初めて鈴木先生ご夫妻や片岡ハルコ先生、髙橋利夫先生にお目にかかったのはフィンランドで、1986年のイースターのことでした。そのヨーロッパ・スズキ大会の期間中、スズキ・メソードの勉強に松本へ行くようにお誘いを受けたのです。ワルトラウト鈴木夫人は、私がシベリウス音楽院出身の歌手だと知って、とても喜んでくださいました。
その年の秋に松本へ行きましたが、最初の日、道に迷ってしまいました。才能教育会館を見つけ、ホールへ入った時のうれしさは忘れることができません。13歳の生徒さんが私のために、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を弾いてくださいましたが、座っているうちに涙があふれてきました。その少女の演奏と鈴木先生のご配慮に感動したのです。その瞬間、これこそが子どもたちのための音楽教育法で、ここが正に相応しい場所だということが分かりました。
初めて訪れた松本での思い出はたくさんありますが、中でも私の人生を大きく変えたのは1986年11月19日のことでした。賛同するフィンランドの母親たちとスズキの声楽プログラムを始めようと決心したのが、その日だったのです。声楽科の生徒たちとの終生の旅が始まりました。2年後、鈴木先生ご夫妻はスウェーデンで、初めて声楽科の生徒の歌を聴かれました。そして翌年、30名の声楽グループが松本の第9回世界大会に参加しました。最年少は生後4ヵ月の幼児で、最年長でも8歳でした。1歳半のクリスチャン君がステージで他の生徒に交じって第2巻の曲をカノンで披露し、最後に嬉しそうにお辞儀をすると、聴衆の皆さんがとても喜んでくださったものです。そのリサイタルの後で、鈴木先生ご夫妻にお会いできたのは感動的な瞬間で、全員でお礼の言葉を捧げました。
93年には韓国の世界大会の前に、3度目の松本訪問をしました。私は才能教育研究会に新設された図書室で毎日、研究に励みました。鈴木先生ご夫妻との楽しい夕食のひとときも忘れることはできません。そこでは声楽プログラムの発展についてお伝えすることができました。生徒たちは91年と93年にオーストラリアで、ご夫妻にお会いし、95年にはアイルランドのダブリンで開かれた第12回世界大会でもお目にかかりました。
1998年、鈴木先生がお亡くなりになった直後にワルトラウト夫人が、お手紙をくださいました。そこには「今こそ、先生方には責任を持って鈴木先生の心を伝えて行っていただきたいのです」と書かれていました。鈴木先生は「戦争のない世界」を強く願っておられました。私たちは先生のお心に従い、声楽プログラムにより世界中を歌声で溢れさせ、子どもたちが他の国の文化や伝統を尊重し、理解できるようになることを願っています。
第13回世界大会が99年に松本で開かれ、フィンランドからは私の1歳になる子どもを含め30名が参加しました。鈴木先生を偲んで私は、先生の愛されたシューベルトの「アヴェ・マリア」をローラ・タヴォー先生のピアノ伴奏で歌いました。この曲を歌ったのは、松本で鈴木先生の88回目の誕生日にヴァイオリン科の学生たちと共演して以来でした。大会期間中は通常の声楽レッスンのほかに、600人もの子どもが参加したグループレッスンもありました。スズキで歌うことは何て楽しいのでしょう。
「急がず、休まず」と鈴木先生は、よくおっしゃっていましたが、そのお言葉のように声楽プログラムは一歩一歩発展してきました。私たちはこれまでに世界大会、研究大会やワークショップに41回参加し、生徒は15ヵ国で歌ってきました。また、20ヵ国もの声楽科の先生方に指導することができました。
2012年は声楽科にとって25周年記念となります。声楽プログラムで学んだ大勢の生徒たちは、今や立派な大人です。歌うことが生活の大切な一部になっていて、プロとして音楽や声楽を研究している人も大勢います。
スズキ・メソードが、音楽を通して成長する素晴らしい機会を与えてくださったことに感謝しています。今回の世界大会にも、声楽の生徒たちが様々な国から参加することでしょう。
スズキの声楽ファミリーを代表して、第16回世界大会の成功をお祈りいたします。
“キラキラ”
後藤晴生
オーストラリア・ ヴァイオリン科指導者
後藤晴生先生は、日本の夏期学校にも毎年参加。メルボルンでの世界大会での精力的なレッスンも、とても印象的です 私は幸運にも1975年、ハワイでの第1回世界大会に生徒として参加させていただきました。
大好きな鈴木先生が本当にキラキラしていました。皆の顔も笑顔でキラキラしていました。そして私も嬉しさと楽しさで、言葉は全然分かりませんでしたが、キラキラしていました。スズキ・メソードを通して、音楽を通して、全然知らない国の子どもたちと心が通った気がしました。特別な時間でした。
世界中のスズキの人々にとって、日本、松本は、とっても特別です。去年の大災害、復興、大変な状況の中での世界大会の開催。日本の皆様への応援と感謝の気持ちで一杯です。
世界中から集う人々の心がキラキラとして、鈴木先生がどこかでニコニコされている…。
音楽の架け橋~心から心へ
ルース三浦
スペイン・ピアノ科指導者
笑顔が素敵なルース三浦先生。バルセロナ在住で、ヨーロッパやアメリカで広く活躍されています 世界大会主催者の皆様に、心からお祝い申し上げます。皆様は深い信念と理想を持ち、鈴木先生のお心を信じて、子どもたちの一生を変えてしまうような音楽の可能性を祝福する機会を、スズキの世界にもたらそうとしておられるのです。
多くのご家族や先生方にとっては、鈴木先生が長年お住まいになり、お仕事をされていた松本へと戻る、なつかしい旅行になることでしょう。初めての方もスズキ・メソードの原点を垣間見ることができ、これまでの日本での夏期学校や世界大会でも見られた不思議な力を経験することになるでしょう。これは参加者全員について言えることです。
鈴木先生の世界平和への願いが私たちの心を一つにし、未来を担うスズキ・チルドレンに調和のとれた落ち着いた感覚を与えてくださるよう、切に願っています。
私に生涯のお仕事をくださり、今なお導き、奮い立たせてくださる鈴木先生に、深い感謝の念を捧げます。
松本で“スズキ・スピリット”に触れることができます
フップ・デ・レオ
オランダ・ピアノ科指導者
片岡ハルコ先生と松本で。フップ・デ・レオ先生は毎年のように松本を訪れておられます 松本は教育と文化が重要な役割を果たしてきた土地です。たとえば、小澤征爾氏のサイトウ・キネン・フェスティバルが長年開催され、オペラをはじめとするクラシック音楽が街の生活の一部になっています。
はるか昔、現在とはまったく異なる時代に、鈴木先生は松本音楽院を設立され、その実験的な音楽教育が松本に温かく迎え入れられたのです。ここから先生のお考えは瞬く間に普及し、世界中の教育界に衝撃を与えることになりました。
このことに気づけば、鈴木先生の音楽学校で何年か勉強できたことは幸せだったと思わずにいられません。そこでの勉強は、他とまったく異なって目新しいものでした。否定的な批判は一切なく、鈴木先生や、他の楽器の先生方にとって、音楽を通して人間性を育てることが大切で、私はそれを“スズキ・スピリット”と実感しました。
松本の世界大会に参加すれば、この街を起源とする“スズキ・スピリット”に触れることができます。過去を未来へとつなぐのに、また、鼓舞されるような経験をするのに、これほどふさわしい場所はないでしょう。
私たちの歩み
ネイダ・ブリッセンデン
オーストラリア・ピアノ科指導者
Nada Brissenden弦楽奏者の不足
様々な音楽の可能性が次々と生まれている昨今、第二次世界大戦後に音楽家、特にオーケストラ奏者が世界的に不足していたということは理解しがたいかもしれません。演奏家や上級の学生である若者たちが戦争に行ってしまったことで、戦時中のみならず戦後幾年にもわたって、プロの演奏家が激減してしまいました。このことが、世界の一流オーケストラだけでなく、地域社会での音楽活動にまで影響しました。
終戦当時、私はヴァイオリニストの夫、ハロルド・ブリッセンデンとともにウロンゴンで音楽教師をしていました。ウロンゴンはシドニーの南80キロにある工業都市です。私たちはシドニー音楽院の卒業生で、2つの高校で教えていました。ハロルドは市の合唱団の指揮者になり、後にはウロンゴン交響楽団という市民オーケストラの指揮者にもなりました。その合唱団は18人の小さなグループから始まり、やがて数百人もの大所帯に成長し、バッハの「マタイ受難曲」やベートーヴェンの交響曲第9番のような作品も歌うようになりました。合唱団がますます盛り上がっていく一方で、オーケストラは若い奏者の不足に苦しんでいました。その地域に専任のヴァイオリン教師はおらず、オーケストラの将来の展望は実に暗いものでした。
世界のヴァイオリン教育を視察する旅
救いの手は思いがけないところからやってきました。ハロルドは当時、ウロンゴン大学の付属教育大学で音楽の主任講師をしていましたが、ウィンストン・チャーチル基金の後援による政府助成金を得て、10ヵ月にわたり、世界中の主要音楽学校で幼児のヴァイオリン教育を中心に視察することになったのです。多くの事前調査を経て、ハロルドはアメリカ、カナダ、イギリス、スイス、ドイツ、オーストリア、ロシアの一流音楽学校を視察するという旅程を提出しました。モスクワからオーストラリアへ戻るには、インド経由と日本経由の2つのルートがありましたが、日本には3歳からの幼児を教えているヴァイオリン教師がいると聞いたハロルドは、その先生に会ってみたいと思い、日本を経由して戻ることにしました。当時の私たちは、まったく存じ上げなかったのですが、そのヴァイオリン教師というのが、鈴木鎮一先生でいらしたのです。
松本の夏期学校に向けて練習する生徒と、ブリッセンデン先生夫妻(1972年) 1968年8月、私たちは5歳と4歳の子どもを連れ、家族で最初の目的地ロサンゼルスヘと出発しました。そこでは、南カリフォルニア大学の世界的に有名なヴァイオリン奏者のレッスンを見学したり、弦楽とオーケストラ課程を見学するために、いくつもの学校を訪れたりしました。オーケストラの課程は当時のオーストラリアには、ほとんどなかったもので、器楽も合唱も、見るものすべてが信じられないくらい高い水準にあることが分かりました。
サンフランシスコからシカゴ、カナダのトロント、ボストンなどを経てニューヨークヘ至る道中で、私たちは水準の高い演奏だけでなく、音楽教育に携わる方々の関心とおもてなしにも圧倒されました。ハロルドの最大の関心事はもちろん弦楽指導で、大学のその分野では際立って素晴らしい学生があふれている一方、小学校では合唱や吹奏楽に重点が置かれているようでした。音楽の先生たちは徐々に、日本の鈴木先生の教育法に気づき始めていて、ハロルドはスズキ・プログラムを始めたばかりの2人の先生にお会いしましたが、それがどのように発展していくかを語るには時期尚早でした。
西ヨーロッパからモスクワへ
初めて参加した夏期学校。才能教育会館入口で 私たちはニューヨークからロンドンヘ飛び、2ヵ月を過ごすことになっていました。ここでのハイライトは、ユーディ・メニューイン音楽学校を訪れたことで、特に若きナイジェル・ケネディが、その学校の学生であったことです。グルベンキアン財団はスズキの教育法をイギリスに紹介する準備を進めていましたが、私たちが訪ねた時は早すぎて、まだ何も実行に移されていませんでした。それからヨーロッパ大陸へ向かい、ジュネーブ、ミュンヘン、ケルン、ウィーンの各都市で2週間ずつを過ごしました。ハロルドはドイツの小中学生の音楽性の高さ、すなわち、歌ったり、音楽を分析し理解する能力に、とても感銘を受けていました。
私たちは、その次にモスクワに行くのを、とても楽しみにしていました。音楽、バレエ、スポーツ、学問のための特別な学校の評判が高く、その取り組みから学ぶべきものが多いと信じていたからです。しかし、当時は冷戦の時代で、モスクワは友好的な場所ではありませんでした。ハロルドは音楽教育国際協会会長のドミトリー・カバレフスキー教授への紹介状を持っていましたが、教授本人、もしくは、どなたか助けになる方への面会は、すべて断られました。元々モスクワでは苦労するかもしれないと忠告を受けていましたので、一旅行者として過ごすことにしました。私たちはオーストラリアを発つ前に、ダヴィッド・オイストラフのリサイタルのチケットを購入していましたが、「リサイタルに行くことはできません。その代わりにモスクワ国立サーカスへ行ってください」と言われたのです! 私たちは、言われた通りにしました。
東京から松本へ
モスクワを後にし、東京に到着したのは1969年の5月5日でした。その日は息子の6歳の誕生日でした。太陽は輝き、子どもの日を祝う国旗が翻り、お店は素晴らしいものであふれかえっていました。モスクワの後で、ここはまるで楽園のようでした。
夏期学校のコンサートで演奏(1972年) 空港で、オーストラリア人の友人夫妻と落ち合いました。私たちは鈴木先生を探す間、皇居に近いホテルに滞在することになっていました。東京のヴァイオリン教授という鈴木先生宛てにお送りしたハロルドの手紙に、それまで返事はいただけませんでした。と言いますのも、手紙の宛先の住所が間違っていて先生のもとに届かず、私たちは東京にいながら、鈴木先生を見つけられずにいたのです。ハロルドと友人たちが音楽学校や音楽大学に何度も電話をかけて問い合わせをしている間、私は毎日何時間も2人の子どもと皇居のお濠の鯉に餌をやって過ごしました。5日目になって転機が訪れました。どなたかが、本多正明先生に連絡を取るようにと教えてくださり、本多先生から、鈴木先生に会うには松本へ行かなければならないとのアドバイスをいただき、翌日には新宿駅に向かっていたのです。
事情で、予定より遅れて電車に乗ることになり、松本には暗くなってから到着しましたが、私たちは宿の手配をしていませんでした。英語の話せる親切な乗客の方が、松本駅の案内所に連れて行ってくださいました。係の人は私たちをタクシーに乗せると運転手に指示を出し、車は駅からさほど遠くないレストランへ向かいました。その上階は旅館になっていて、私たちは洋式ベッドのある唯一の部屋を提供され、そこで1ヵ月半を過ごすことになります。
才能教育会館で
翌朝、ハロルドは鈴木先生を探しに出かけ、私は子どもと一緒に宿の周辺を散策しました。夕方、ハロルドが戻ってくると、私は「鈴木先生は見つかったの? どうだったの」と熱心に尋ねました。すると、興奮しながら、こう言ったのです。「信じられないよ! こんなことは今まで見たこともなかった! 5歳の子どもたちが、ヴィヴァルディやバッハの協奏曲を弾いているんだ」。私も信じられないような思いで、「あぁ、でも、それはどんなふうに聴こえたの?」と聞くと、ハロルドは「君も行って、自分で聴いたり見たりしなくては、だめだ。素晴らしいんだ!」と言ったものです。
そして、それは本当に素晴らしかったのです! 数日後、私たちは家族揃って才能教育会館へ行きました。鈴木先生ご夫妻が迎えてくださり、私もまた完全に圧倒されてしまいました。喜びと幸せが、その場全体に沁みわたっていました。幼児や年長の生徒たち、そして母親や先生たちも全員が「キラキラ星変奏曲」から協奏曲までの演奏に、楽しそうに没頭しているのです。どの生徒も楽譜通りに正しく、素晴らしい姿勢と美しいボウイング、確かな暗譜で演奏しており、しかも、明らかにそれを楽しんでいます。私は、こんなにも感動的なことは見たこともありませんでした。鈴木先生は誰とでも親しく接してくださり、アッという間に自分が先生の国際的な家族の一員になれたような気がしたものです。
夏期学校中に鈴木先生と 松本には、スズキの指導者になるために勉強している留学生もいて、素敵な宇治の町で行なわれるという全国指導者研究会に誘われた時は、わくわくしました。電車での旅の数時間、鈴木夫人が私を抱え込むようにして、鈴木先生の信条と理念について細かく説明してくださいました。お二人がベルリンで、どのように出会われたか、そして鈴木先生がドイツ語に苦労する中で、幼い子どもたちが難なく話しているのに気づかれ、それが母語教育法を信条とする上で、どのように影響したか、というようなお話をしてくださいました。オーストラリアに戻ったら、スズキ・プログラムを始めるようにと、しきりに勧められましたが、私は「オーストラリアの母親は子どものレッスンに参加したがらないので、無理かもしれません」とお話ししました。私の国の母親は、ほとんどが家庭の外に仕事を持っており、レッスンに同席したり、毎日、家で練習させたりすることができないのです。すると、夫人は、おっしゃいました。「ネイダさん、世界中のどの母親も一緒ですよ。みんな子どもにとって一番いいものを求めているのですから、説明さえすれば、きっとレッスンに来てくれますよ」
オーストラリアに戻って
オーストラリアに戻る時はすぐにやってきて、帰国すると、これまで通りに忙しい職場や家庭での普段の生活に戻りました。翌70年、私は家や大学に近い私立の女子校で音楽教師の仕事に就きました。校長先生が音楽課程の拡大に熱心で、そのことがスズキのヴァイオリン・プログラムを始める好機となりました。鈴木先生は「遅すぎるということはないが、より早い時期が良い」と、早く始めることの重要性を強調されていましたが、ハロルドと私は少し年長の7~8歳の子どもから始めて、経験を積んでから就学前の子どもへとさかのぼるのが良いと考えました。両親が関心を持って参加を熱望した、8人の女の子たちとスズキ・プログラムを始めました。ハロルドは週2回、個人レッスンとグループレッスンのために大学から通い、私は〝ヴァイオリン・マザー〟として授業の始まる前や昼休み、放課後にそれぞれの女の子と練習しました。母親たちは、できるだけ、レッスンに同席するように勧められました。プログラムは実験的なものでしたので、レッスン料は、いただかないことにしました。
とても嬉しいことに、女の子たちの上達は素晴らしく、レッスンを楽しんで受け、学校や町の様々なイベントで演奏しました。1972年、私たちはこの小さなグループのために、松本の夏期学校へ行くツアーを計画しましたが、これが、オーストラリアにおけるスズキ教育のターニングポイントになったのです。指導曲集第2巻を勉強中の8歳児たちは、夏期学校で日本の子どもの演奏を聴いてびっくりし、奮起しました。滞在している旅館に戻ると、日本の子どもたちと庭で遊び、その後は一緒に遊んだ子どものように上手くなりたいと練習したものです。その日本の子どもたちは、ほとんどが4歳か5歳でした。
その後の発展
鈴木先生は私たちの指導者養成を支援するために、若い先生を派遣してくださることになり、現在、アメリカのシアトル在住の中村真理(旧姓・山崎)先生が6ヵ月にわたり、ウロンゴンとシドニーの音楽学校で指導されました。翌74年、私たちはオーストラリアの音楽教師たちの研修旅行を行ない、日本の様々な支部を見学しました。この旅行に参加した、メアリー・モンティコン先生、ジョージ・コールマン先生夫妻、ダイアナ・ラッセル先生、ロイス・シェパード先生、ノラ・ホッグ先生たちは、オーストラリアの各所でスズキ・プログラムを立ち上げました。
その後、大変ありがたいことに、日本の優れた先生方が、オーストラリアに居を構えてくださいました。ハロルドと私がウロンゴンからシドニーに引っ越した際は、著名なヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズ先生と裕子夫人がオーストラリアに転居され、ウロンゴンのスズキ・プログラムを裕子夫人が引き継いでくださいました。そして私たちは、国際的に有名な中村安樹先生(ヴァイオリン)、水島隆郎先生(チェロ)、後藤晴生先生(ヴァイオリン)、結城幸恵先生(ヴァイオリン)、バラ宮坂斎子先生(ピアノ)方からも大きな恩恵を受けています。ごく最近では喜多川摩耶先生(ヴァイオリン)が日本から見えて、42年前にすべてが始まったウロンゴンで1年間、指導されることになりました。
ハロルドと私は、鈴木先生という偉大な方を知ることができ、光栄に思っています。先生は20世紀のどのような人物にも増して、弦楽奏者の不足を救い、そして音楽の喜びを無数の子どもたちにもたらされたのです。
2013年3月に松本で開かれる世界大会を、心から楽しみにしております。
世界に広まる0~3歳児教育
ドロシー・ジョーンズ
カナダ・早期幼児教育指導者
松本で開かれる第16回世界大会に参加される生徒や親御さん、先生方を、世界中のスズキの仲間とともにお迎えできるのは大きな喜びです。子どもたちにとって、音楽を通して多くの国の生徒と友だちになれる、何と素晴らしい機会でしょう。
鈴木先生ご夫妻に早期幼児教育クラスの写真を見ていただく(1989年、世界大会期間中の松本で。右がドロシー・ジョーンズ先生) 私の日本の思い出は、何回も行なわれた世界大会や、才能教育研究会での鈴木鎮一先生との日々なのですが、そこから絶えず示唆を与えられて世界中のスズキ早期幼児教育の先生たちを指導してきました。鈴木先生との活動について話をするように、たびたび依頼されます。才能教育会館ホールでのヴァイオリン科のグループレッスンは、見学者は私だけという時もあり、長年にわたって大勢の子どもや親御さん、先生方を鼓舞して来られた素晴らしい先生の、個人レッスンを受けているかのようでした。私はピアノの指導者ですので、日本ではピアノの練習と片岡ハルコ先生のレッスンに専念するものと思っていましたが、着いたその日に鈴木先生にお会いして、すべてが変わってしまいました。息子のデヴィッドは当時12歳で、鈴木先生と森ゆう子先生のレッスンを毎週受けることになり、“ほとんど大人なので”研究生のクラスにも毎日出席することになりました。そして鈴木先生は「でも、まだ子どもですから、お母さんも一緒に出席されますね」と、付け加えられたのです。
鈴木先生は毎日、このクラスを指導され、「新しいアイデア」とおっしゃって、ステージ上で新たな指導法を説明し、実践されるのでした。これが、インスピレーションに満ちた毎日の出来事でした。先生がレッスンの合間の時間にも、指導者や学生たちの必要とすることについて、思いを巡らしておられたのは明らかで、先生が私たちに期待なさった指導というものの、素晴らしい模範でありました。
1975年にハワイで開かれた第1回世界大会で、鈴木先生が次のように話されたのが強く印象に残っています。
「教育は、子どもの生まれる9ヵ月前から始めなければなりません」
そして2年後の第2回世界大会では次のようにおっしゃって、さらに強烈な印象を与えられました。
「最初の世界大会で、私は間違っていました。今では、教育は母親の生まれる9ヵ月前から始めなければならないと考えています」
1985年に、学校での幼児プログラムなどについて鈴木先生と話し合いましたが、カナダに帰国したら、それを始めるようにと勧められ、日本での研究についての考え方が変わりました。先生は、才能教育幼児学園の矢野美和先生を訪問するように手筈(てはず)を整えてくださり、教育全般についても様々なことを話し合いました。ホールで、すれ違うと先生は、いつもおっしゃるのでした。
「幼児のことを忘れないように」
オンタリオ州のロンドンに戻ると、すぐにスズキの親御さんたちに助けを求めました。皆、鈴木先生が、いかに勇気づけてくださったかを理解すると団結し、子どもの才能教育センターを作るに当たって大きな支えとなってくれました。プログラムには、まさに幼児が含まれ、実際、乳幼児プログラムはその学校の顔となり、過去25年間、私は大変忙しく過ごしてきました。
鈴木先生ご夫妻は、その学校での新たな展開について、とても興味を持ってくださり、次の世界大会には私が写真と経過報告をお持ちすることになりました。先生は発展を喜ばれ、常に支援してくださいました。
ご逝去後、0~3歳児教育への鈴木先生の影響力は世界中に広まっているように感じられます。たとえば、つい最近、私はスイスで16人の先生の養成コースを終えましたが、それはイギリス、ドイツ、スイス、フランス、イタリア、スペイン、スウェーデンの文化圏を代表する皆さんでした。それぞれの国で、スズキ早期幼児教育を普及させようという素晴らしい協調心が、この先生たちの中にあるのを目にされれば、鈴木先生は大変喜ばれたことでしょう。
世界大会は先生方にとって、他の国の同僚と新しいアイデアを分かち合い、世界中に広まりつつあるスズキ・メソードの最新の展開を学ぶ、試金石となってきました。2013年3月に松本の世界大会に参加して、旧交を温め、新しい友情を育むのを楽しみにしています。
初めてお目にかかった鈴木先生
スーザン・グリリー
アメリカ・早期幼児教育
鈴木先生とスーザン・グリリー先生。1987年に松本で 1970年の夏のことですが、才能教育研究会の夏期学校期間中に私は初めて松本を訪れました。日本育ちの夫、 ピーターとともに、指導中の鈴木鎮一先生に初めてお目にかかることになっており、二人とも、とても興奮していました。聴衆を前にしたステージで楽しい冗談を交えながら、あらゆる年齢層の子ども、先生、親たちを魅了してしまわれる鈴木先生の溢れるようなエネルギーは、予想もしていないことでした。しかし、また先生は、その日に分かってもらいたい主要な指導ポイントについて大変明確な認識をお持ちで、生徒たちは先生を敬慕しているのでした!
私は、スズキの理念と教育法でヴァイオリンを指導してきた、それまでの3年間を直ちに思い返しました。その間、鈴木先生の素晴らしい教え子であるシルヴィア・エドマンヅ先生が、私に助言と示唆を与えてくださったのです。
鈴木先生を拝見していると、あのE.T.か、パイド・パイパー(ハーメルンの笛吹き)を眺めているようで、先生は教えることが大好きで、生徒が演奏を立派に成し遂げるという確信を全身で表現しておられるのでした。天才でいらっしゃるのですが、どう見ても生徒から、かけ離れた存在ではありません。先生がなさること、特に幼い子どもたちと一緒になさることは、すべてが面白くて笑いに満ちているので、子どもたちと特別な秘密を分かち合っているかのようでした。
「見てごらん、私はみんなの仲間で、同じ5歳の子どもですよ!」
第16回世界大会は、世界中から集まる先生方が自身の喜びを再確認し、鈴木先生が与えてくださった輝かしい教育法の理解を深める、並はずれて大切な機会です。この教育法は専門の音楽家を育てようとしているのではなく、芸術や様々な習い事の愛好者を育てることを目標としています。鈴木哲学の真髄は、人の一生を通じて、才能は育てられるものであるという自覚に導くことであって、その人が誰であろうと、どこに住んでいようと、関係ありません。
今回の大会は参加者全員を大いに奮起させ、生徒たちにも、これから先、何年も小波(さざなみ)のような影響を与え続けるに違いありません。そして、世界で最も偉大な早期教育者のお一人であった方の思い出と、その方にふさわしい環境を提供された松本市と松本市民への賛辞となることでしょう。