世界大会の歴史は、戦後日本の急成長と重なります。
右から本多正明先生、鈴木先生、井深大さん、ドーマン博士 1955年、東京体育館で第1回のグランドコンサートが開催され、その模様を撮影したフィルムがアメリカに紹介されました。それがスズキ・メソードの種を海外に蒔く、記念すべき第一歩でした。それを機に、1964年、第1回の海外演奏旅行が実現します。いわゆる「10チルドレン」と呼ばれた子どもたちが、アメリカに、後年ヨーロッパにスズキ・メソードを紹介していく大きな原動力になっていきます。そして世界各地にスズキ・メソードの芽が伸びてきた時、世界大会は誕生しました。
第2回世界大会(ハワイ)1977年 1971年の演奏旅行先は、アメリカ・カナダ・ヨーロッパでした。一行がホノルルに立ち寄った折、同行の先生が「こういうところで先生方の研究大会が開けたら素敵ですね」と提案がありました。それを、医師でありながら、鈴木先生の片腕として、本業を休んで第1回演奏旅行から同行し、国内外で「スズキ・メソード」を広めるために尽力されていた本多正明先生(故人、元本会名誉理事)が聞いていました。本多先生はその時「松本の夏期学校のように、世界中のスズキの先生が一堂に会することができたら、どんなに素晴らしいか」と考えました。「夢のような考え」と思いながらも、いいと思ったら行動するのが本多先生の流儀です。「一生懸命にやって実現させる価値がある夢」のために動き始めました。
第4回世界大会(ミュンヘン)1979年 最終的に、大きな力となったのは、鈴木先生の賛成でした。「それは面白いですね。やってみますか」。鈴木先生の力強い言葉に、本多先生は一気に具体化していきます。広いホールを持ち、練習する部屋も十分あるハワイのヒルトン・ホテルを会場として決めると、世界各地の先生方に招待状とともに、目的、プログラム、登録費などの詳細を発送しました。
第11回世界大会(ソウル)1993年 こうして第1回世界大会は、1975年6月27日、アメリカとオーストラリア301名、日本571名の参加者を得て始まり、またたく間にプログラムは進んでいきました。最終日には、2年後に同じホノルルでの、第2回世界大会の開催を約束し、鈴木先生の「どうか皆さん、目を覚まして世界を救いましょう」の言葉を胸に、参加者はまた各地に散っていったのです。
第13回世界大会(松本市)1999年 その後、本拠地松本を除けば、アメリカ、ドイツ、カナダ、オーストラリア、韓国、アイルランド、イタリアと、毎回都市を変え、およそ1年おきに開催されていきました。その歴史は、世界各国でしっかり根をおろし、子孫を増やしてきた道のりに重なっています。
※出典/スズキ・メソード季刊誌 No.156
※このページ最上部の写真は、第15回世界大会
(オーストラリア・メルボルン)に参加されたインドのみなさんです。
世界大会の歩み
回数 | 開催国 | 開催地 | 年月 |
第1回 | アメリカ | ハワイ | 1975年6月 |
第2回 |
アメリカ | ハワイ | 1977年6月 |
第3回 |
アメリカ |
サンフランシスコ | 1978年8月 |
第4回 | 西ドイツ | ミュンヘン | 1979年6月 |
第5回 | アメリカ | マサチューセッツ | 1981年7月 |
第6回 | 日本 | 松本市 | 1983年7月 |
第7回 | カナダ | エドモントン | 1985年8月 |
第8回 | 西ドイツ | ベルリン | 1987年8月 |
第9回 | 日本 | 松本市 | 1989年7月 |
第10回 | オーストラリア | アデレード | 1991年1月 |
第11回 | 韓国 | ソウル | 1993年8月 |
第12回 | アイルランド | ダブリン | 1995年7月 |
第13回 | 日本 | 松本市 | 1999年3月 |
第14回 | イタリア | トリノ | 2006年4月 |
第15回 | オーストラリア | メルボルン | 2009年4月 |
第16回 | 日本 | 松本市 | 2013年3月 |